弁 護 士 と 裁 判 官                             龍 岡 資 晃

1 法曹としての道へ

私が法曹の道を歩むようになったのは、裁判官であった父から勧められたからではなく、東京大学法学部に在籍中、民事訴訟法の講義で、三日月章教授が司法試験に合格したならば大学院への進学ができるとの話をされたことがきっかけであった。大学の法学部に入学したのは、「潰しが利く」と言われていたからであって、特に具体的な将来の夢があったわけではなく、法学部在学中も漠然と大学院に進学し学究になろうかなどを考えていたように思う。

 三日月教授の話があった頃、津田禎三叔父が第15期司法修習生として、当時東京都文京区白山にあった司法研修所の寮に入寮することになり、どのようなところか興味を覚え、誘われて同行した。その際だったと思うが、叔父から、司法試験を受けてみろ、我妻栄の「民法案内」を読めなどと勧められ、せっかく法律を学んでいることでもありと、その気になって司法試験を受けることを真剣に考えるようになった。父にその話をすると、「そうか。それもよいだろう。1年間勉強に集中し、1回で合格できなかったら、諦めろ。」と言われた。その頃はいわゆる教科書・受験参考書の類のものは少なく、刑法は団藤重光教授の「刑法綱要」総論・各論、刑事訴訟法は同教授の「刑事訴訟法綱要」、民事訴訟法は三日月教授の「民事訴訟法」といった具合に、講義で使用されている教科書を繰り返し読んだ。刑事訴訟法については、平野龍一教授の「刑事訴訟法」を、民事訴訟法については、兼子仁教授の「民事訴訟法」を併せて読み、参考とした。

 法学部4年の時、司法試験を受け、第2次の論文試験の結果発表を待っていた頃、当時は景気がよく、学友らは次々と一流企業に就職が内定していたこともあって、司法試験に不合格となった場合のことを考え、大学同級の友人О君の勧めで、彼が既に採用内定していたN銀行を志望し、内定を得た。しかし、司法試験に不合格となった場合、1回の失敗で撤退するのは残念な気がし、父にはもう1回受けるつもりであることを伝えていた。

幸い論文試験、そして口述試験にも合格することができたため、内定していた銀行に行き事情を話し、法曹としての道を進みたいので、内定を辞退したい旨申し出た。人事担当者から、「『隣りの芝生はよく見える』ものです。そのようにならないように頑張ってください。」と言われたことが今も記憶に残る。

N銀行を勧めてくれたО君は、その後副頭取になっている。О君や、民営化されたJR貨物の社長等を歴任したI君など教養学部時代の級友らとは、それぞれが経済界等の第一線を退いてからも、年1回クラス会で会うなど交流が続いている。

 

2 最も古い記憶

ちなみに、私の最も古い記憶は、太平洋戦争の末期、当時住んでいた甲子園の家が空襲で焼け、防空頭巾を被り一家で付近の川岸まで避難した時のことである。その後は、生母方実家の和歌山の津田家に疎開し、終戦の年昭和20年に、父が大阪地裁から鹿児島地裁に転勤したのに伴い、父の実家のある鹿児島県川内市(現薩摩川内市)に転居し、祖父母等と生活するようになった。父が朝早く起き、カボチャに受粉させるなどし、満員の列車で鹿児島に通勤していたことが記憶に残っている。

昭和23年に川内市立平佐西小学校に入学、3年生の途中、父が最高裁調査官に転任したことに伴い、東京都港区白金台町の当時竣工したばかりの4階建のアパート式の国家公務員住宅に入居し、港区立白金小学校に転校した。同区立高松中学校を経て、東京都立日比谷高等学校に入学、第一次安保闘争時の昭和35年に東京大学教養学部文科1類に入学した。

 

3 司法修習生として

司法修習生となったのは、昭和394月、第18期生で、10組であった。もう半世紀以上も前のことであるが、その年10月、東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が営業を開始し、首都高が開通するなど、我が国は、太平洋戦争後の苦難の時期を経て、驚異的ともいえる復興を遂げてきており、経済的に活況を呈していた。

18期生は500人足らずで、当時の司法修習の期間は2年間であった。司法研修所における4か月の前期修習を終えて、それぞれの実務修習地に行き、民裁、刑裁・家裁、検察、弁護の各4か月の実務修習やその間の夏季合同研修を経て、研修所に戻り、後期修習に入り、2回試験を受け、これに合格して、司法修習修了となる。

私の実務修習地は、東京、その2班であった。弁護修習は、M法律会計事務所(現在はM法律事務所)、指導担当はО弁護士で、他にK弁護士、M弁護士がおられた。私は、同事務所の3代目の修習生で、大事にしていただいた。ある企業関係の事件で、先生方が合宿して訴訟等の準備をされた際、私も参加させていただき、依頼人の要望に応えるため、このように時間をかけ周到な準備をしていくのかと感心した。その後裁判官に任官してからも、弁護人から提出された書面を見るたびに、その時のことを思い起こした。

そのような弁護士の仕事ぶりに魅力を感じ、先生方に勧められ、司法研修所における後期修習に入ったところで弁護士を志望し、一旦はM事務所に入ろうと決めた。しかし、裁判官の仕事にも惹かれるとことがあり、性格的に学究的でもある裁判官の仕事が向いているのではないかなどと考え直し、О弁護士始め先生方にも了解していただき、最終的に裁判官を志望することにした。人生の岐路となる決断であったと思う。

振り返ってみて自分なりの選択としてこれでよかったと思うが、この時弁護士としての道を選択し、M事務所に入り、О先生らと一緒に仕事をしていたならば、どのような人生を送っていただろうか。О先生やお二人の先生方とは、一緒に仕事をしてみたかったと思うことがある。その先生方は皆既に亡くなられている。ご冥福をお祈りするばかりである。

 

4 弁護士として

裁判官として40年余り務め、福岡高等裁判所長官を最後に平成189月に定年退官した。その後学習院大学法科大学院の非常勤講師を経て、同194月から5年間実務家教員の教授として勤務した。

その間、西綜合法律事務所の西廸雄先生に誘われ、平成19年に弁護士登録をし、同事務所に籍を置かせてもらい、所内の民事裁判例の勉強会などにも参加させてもらうなどして、今日に至っている。

弁護士登録をしたのは、法科大学院の学生に法廷傍聴などの機会を作り、実務の一端を知ってもらうためでもあった。東日本大震災が発生した平成23311日には、法科大学院の学生を連れて東京地裁の刑事事件の法廷傍聴に行っていた。東京高地簡裁の合同庁舎が大きく揺れ、まともに歩くこともできず、揺れが収まるのを待つしかなかった。かなり大きな揺れが断続的に続き、ようやく庁舎外に出ても、公共交通機関が運行を停止していたため、その夜は娘が事務員として勤務していた新橋の弁護士事務所で過ごし、翌朝娘と帰宅したことを思い出す。

裁判官としての勤務のほとんどが刑事担当であったこともあって、西先生に「刑事関係ならお役に立つことができます。」と申し上げたら、「うちの事務所には刑事事件はないよ。」と言われた。そのため、西事務所では刑事事件を扱うこともなく、刑事事件の弁護人として仕事をしたのは、娘の勤務する事務所の弁護士で、司法研修所の同期同クラスであった弁護士からの誘いで担当したことがある程度に過ぎない。正直に言って少々残念な気がしている。

 

5 裁判官から見た弁護士

判事補のころのことであったと思うが、祖父津田勍に「弁護士から信頼される裁判官になれ。」と言われたことがある。この一言は、裁判官在官中、常に頭にあった。その一方で、長年刑事裁判官として多くの弁護人と接してきた経験から、弁護士も裁判官から信用されるようでなければならないと思う。証拠に基づいた筋の通った主張は、裁判官を説得し、依頼人を納得させる。裁判官在職中には、都合のよい証拠だけを取り上げ、不都合な証拠について何らの説明もせず、無視しているような弁論要旨や上訴趣意書も少なからず見かけた。証拠を丹念に精査検討し、依頼人の言い分をよく聞き、事件の筋を的確に見極め、主張すべきところをポイントを絞って明確に主張し、裁判官をして真剣に考えさせることが、優れたよい弁護士ではないかと思う。

 

6 LIC・判例秘書の刑事裁判例研究会

学習院の法科大学院の教授を70歳の定年で退職した。その後、株式会社LIC・判例秘書のS社長の了承を得て、裁判官ОB、弁護士、若手研究者らをメンバーとする刑事裁判例研究会を立ち上げた。平成29年(2017年)1月から4年余りにわたって、同研究会のメンバーによる「裁判員裁判に関する裁判例の総合的研究」がLIC・判例秘書ジャーナルに掲載された。同研究会は今も継続しており、昨今では最近の最高裁判例の評釈に力を入れている。

80歳になった昨年9月に、代表の役目をM弁護士に引き継いだが、今しばらくはこの研究会に関わっていくつもりである。

 

7 結びに代えて

一昨年来、新型コロナウイルスの流行が一向に収束しない状況が続いているが、そのような中で、昨年7月には2度目の東京オリンピックが開催された。パラリンピックとともに、無事に開催されることが、日本経済のためにも強く望まれ、ワクチンの接種が広く行き渡ることが、大きな力となるものと思われた。しかし、一旦は収束に向かっていたように思われたコロナ禍も、その後変異種のオミクロン株の流行が現実化し、未だ先が見通せていない。一日も早く収束し、自由に行き来ができ、活動ができる日の来ることが待たれる。

 

                                 〔令和4(2022)年1月15日〕